玉島地区
円通寺(倉敷市玉島柏島)
岡山県倉敷市玉島の円通寺は、昔から文人墨客が多く訪れている。
瀬戸内地方にあって風光明媚で、幽邃境と言われる程です。この円通寺で良寛が修行したことは名高い。
円通寺は、僧行基の開創と伝えられ、行基作といわれる星浦観音を祀った霊場であったが荒廃。
これを元禄年間に加賀金沢の大乗寺を隠退した徳翁良高和尚が再興したのが現在にいたる玉島円通寺である。
円通寺は倉敷市玉島柏島の白華山(標高100メートル)の山腹に、松林を背景に簡素な伽藍を見せている。良寛の修業当時の面影を伝える茅葺屋根の衆寮(現在の良寛堂)などが、禅寺にふさわしい閑静なたたずまいを見せている。(山陽新聞社編、続、思想の流れより)
参考文献
- 「瀬戸内の先覚者」続 思想の流れ
山陽新聞社編 - 「玉島円通寺の良寛さん」
森脇正之著 倉敷文庫刊行会 - 「聖僧良寛」
伝記と逸話 森脇正之 倉敷文庫刊行会 - 「聖良寛と玉島」
森脇正之 倉敷文庫刊行会 - 「時をこえて玉島」-なつかしの風景ー
松尾武宜 - 「億在円通寺」玉島と良寛
岡山県良寛会 - 「良寛 RYOKAN」34 良寛さんウォーク良寛修行と玉島
考古堂 - 「遥かなる良寛」
小島寅男著 考古堂
沙美海水浴場(倉敷市玉島黒崎)
この浜は日本でも二番目に古い?と言われる海水浴場でもあります。
阪田待園という、医者でもあった人物が、大磯に海水浴場がはじめて設置されたというのに刺激されて、玉島付近の海浜を巡回して、ついに黒崎村沙美の浜を好適地と認め、漁民の網干し場であるという理由で反対されたにもかかわらず、幾多の苦心ののち、明治15年頃に沙美海水浴場を開くことができた。株式組織で、大部分は彼が出資した。
高倉天皇(1161~1181)が厳島行幸記の中に、廿四日のとらの時(午前四時ごろ)に、つづみをうちて、び中(備中)の国せみというところにつかせ給う。国々ふかくなるままに、山の木立、いしのたちようもきびしくみゆ。廿五日のさる時に、安芸の国むま島というところにつく。
これにて、皆うしはにて髪を洗い、身をきよむ。宮じまちかくなりにけりと、きよき心を起こす。
文中の「び中の国せみ」というのは、現在の玉島沙美のことです。
都から来た高倉上皇には花崗岩の多かった沙美は、そのような実感だったと思われます。沙美の中央の北300メートルの所には石場という地名が残っており、豊臣秀吉が大阪城を築いた時、ここから石材を運んだといわれています。
55メートル近い御堂石という長方形の巨岩が今も残っていて、厳島行幸記を偲ばせます。
江戸時代には「左見」「佐見」などと古文書に出ています。
いまでは沙美海水浴場として知られています。
(「玉島風土記」森脇正之 著 岡山文庫 169)
これは岡山でも初の海水浴場で、病人の治療が目的のため医師のいることが絶対条件、そのための建物も最近まで残っていた。
待園は奇人としても有名で、県下で初めて乳牛牧場を開いたり、養豚や製氷、水道などの事業をつぎつぎに企画した。
そのことごとくは失敗に終わったが、かえって庶民の崇拝の的となって死後大明神に祀られたという。
(岡山文庫 玉島風土記参照)
昔の沙美海水浴場風景
玉島駅(現在の新倉敷駅)
明治24年7月14日に玉島駅(今の新倉敷駅。山陽新幹線が来て、こだまの止まる駅として 新倉敷駅と改称された。)ができる。
当時の玉島はまだ港で栄えていたので、港とのかかわりで、生計を立てている人も多く、岡蒸気がくると、玉島港がさびれると、港の近くに駅を作ることに頑固に反対するひともいた。
結果、鉄道は玉島を通らず、となりの長尾村を通り、駅名だけは玉島となった。
けれども玉島港は和船(北前船には適していても、大型汽船、鋼鉄船を入れるには浅く狭いので、しだいに時代から取り残されてしまった。
いま、新倉敷駅前が大きな道路とともに新しく町が出来ているのは、最近の町作り計画の一環である。
この頃流行った都々逸に「たんす長持ち質屋に入れて、乗ってみたいな岡蒸気」というのがあった。
この鉄道が、国有となり、 複線となり、玉島港は四国への連絡港として脚光を浴びた。
駅から港への道路にはガス灯がともされ、旅館も多く 立ち並びました。ところが明治43年、岡山ー宇野間の鉄道が敷かれ、宇野港から連絡航路が開かれると、その所要時間が1時間10分になり、玉島ー多度津間の2時間に比べ、ぐっと短くなったため、玉島から四国への連絡線の乗客や貨物は、まるで火が消えたように少なくなってしまいました。
(岡山文庫 玉島風土記参照)
玉島の文化
玉島が瀬戸内有数の港として栄えると共に、京都、大阪の先進地との交流が盛んになりました。港問屋を中心に絵画、茶道、詩歌などが流行し、備中文化をはぐくみました。近世玉島画壇の開拓者といわれるのは、讃岐(香川県)から来て玉島に定住した黒田陵山(1755-1814)で、多くの門弟を教えました。中でも岡本豊彦、岡本陵江(起雲)小野雲鵬などが有名でした。
(岡山文庫 玉島風土記参照)
浅口地区(金光・鴨方)
金光町
玉島(JR山陽線新倉敷)から西に向かって10キロほど、行くと、金光教のある、金光町につきます。
金光教は幕末から明治にかけての転換期に誕生した新しい民間宗教で、天理教、黒住教などと並び、いわゆる教派神道13派の一つに数えられている。
金光大神
いうまでもなく、金光教の教祖である。金光教祖が立教の神宜なるものを受けたのは安政6年(1859)46歳の時と言われる。金光教祖は文化11年(1814)備中国浅口郡占見村(現岡山県金光町)の香取十平という農家の次男に生まれた。村を一つ隔てた大谷村(金光町大谷)の農家川手灸次郎の養子となり、名を文治郎と改める。養家では相当大事に育てられ、村の庄屋・小野光右衛門のもとで読み、書き、そろばんを覚え教養を得た。小野光右衛門は一流の知識人で博学多才、進歩的な人物であった。農民文治郎は養父母を助けてよく働いた。その年、赤沢姓んび改名した文治郎は23歳で結婚するが、もちまえの勤勉実直から川手家より生活にゆとりができた。しかし、天災飢饉に泣き、はやり病に苦しみ、徳川末期で、一揆や打ちこわしが各地で勃発。そんな世相の中、ひたすら神仏の加護を願う農民であった。彼は信仰心が厚く、近隣の神社仏閣に詣で17歳の時、伊勢神宮へ、33歳の時には四国八十八箇所を巡拝している。真面目で信仰心の厚い文治郎であったが、彼の家庭は相次いで不幸に見舞われている。養父親子、実子3人、飼牛2頭が倒れている。偶然で運命的なものにしろ、こうした境遇にさらされながら文治郎は神人一致の極意に達し、生神・金光大神へと成り代わっていった。
この過程にはどうしても語らなければいけないのが陰陽道の思想がある。これが当時、通俗信仰として祟り神・金神が大きく頭をもたげていった。文治郎もこのような通俗信仰から出発して、日柄とか方位にも細心の注意をはらったりしたが、相次ぐ不幸にあう、それを金神のたたりとせず、むしろ自分自身の生き方に問題があると考え、自らを見つめ、一層敬虔、真摯に信仰に励んだ。神という名のつくものが災いするとは不思議である。災いする力があれば、又、人を助ける力もあるはず、と考えた。その結果、人びとは悪神、邪神と恐れた金神の面影は次第に薄れ、彼の心眼には慈愛の神とうつるようになった。そしてこの慈愛の神より霊験を与えられ、彼自身驚くべき霊能を現すようになった。これが、神憑りによる教祖誕生のくだりです。農民文治郎も幾度かこの種の体験を経て神格化されていった。安政6年(1859)に立教の神宜を受けて以来、自宅の座敷を神の広前と定め、氏子の願いを神に、神の願いを氏子へ取次ぎ教える祈念と教道の道に専念した。「取次ぎ」の言葉は「取次ぎ、助けてやってくれ」と金光教立教の神宜の中に出てくる。教祖が当時取次ぎを行った家は現在金光教本部教庁に残っている。教祖はここで70歳で世を去るまで、約25年間不眠不休で奉仕したという。「大谷の生き神様」のうわさは明治初年には山陽道は勿論、西は九州、東は大阪に及び、大谷の広前は各地からやって来る信者で門前市をなすほどになった。その後、既成の宗教勢力との対立や政治権力からの圧迫はあったものの、その教えは、政治、社会に及ぶことが少なく、天理教のような圧迫はなかった。ともあれ金光教は激動の波にもまれながらも、金光教の神観と教義の確立に努めている。「天地金乃神」という神観になっている。外面的な形式よりも内面の実質的な信仰を重んじ、日々の生活を大事にするように、と、教義されている。金光大神覚と呼ばれる言行録は教祖自身が生涯を回顧し農民時代の日常生活から立教後のあらゆる出来事を宗教者の内的体験をまじえながら克明に記録し、金光教の思想的基盤として引き継がれている。
鴨方町
「鴨方に過ぎたるものが三つある 拙斎、壱我、宮の石橋」と歌われ、いまなお、土地の人々から慕われているのが、江戸時代後期の儒者西山拙斎である。 旧家を改修した「かもがた町家公園」がある
「朱子学者拙斎」
西山拙斎は、鴨方では天神さまと同じように学問の神様になっています。拙斎は、享保20年(1735)備中鴨方村(現、岡山県鴨方町)に医師恕玄の子として生まれた。名は正、字は士雅(子雅)で、拙斎、至楽居、山陽逸民などと称した。大阪に出て医学、儒学、国学にも精励したが、師の魯堂が、荻生徂徠の古文辞学を手がけていたので、拙斎も朱子学を学んだ。彼の生きた時代は寛政の改革が行われた時期で、わいろが横行し、士風の退廃が著しく、相次ぐ、天災飢饉で、庶民が困窮し、打ちこわし、一揆などが続発した幕府政治の暗黒時代だった。こういう混乱の時代の中で、拙斎は朱子学者として活躍した。34歳ごろに郷里に「欽塾」を開き、師弟の教育に力を注いでいる。本居宣長が国学を重んじ、儒学をけなすのに反感を持った。異学の禁に一役買っている。孔子を尊敬し、朱子学に心酔した儒者であった。生涯仕官することなしに、民間の「処士」としての態度をまっとうした。倉敷市玉島黒崎の惠池という池の傍らには拙斎が撰文した碑が残っている。
(瀬戸内の先駆者、続、思想の流れ{山陽新聞社編}参照)
倉敷地区
新倉敷駅より、山陽本線上りに乗って、倉敷駅下車。
駅の南側からまっすぐ倉敷中央通りを行き、左に入ると、江戸時代の町並みを残す、有名な倉敷美観地区に着きます。
又、倉敷駅のすぐ、北には、アリオ倉敷ショッピングセンター、三井アウトレットパーク倉敷があります。
では少し、簡単なご案内をいたします。
大原美術館
大原美術館は昭和5年(1930)倉敷紡績2代目社長大原孫三郎が洋画家、児島虎次郎(1881~1929)にヨーロッパで収集させた絵画をもとに、設立した日本で最初の西洋近代美術館です。児島虎次郎は大原孫三郎の援助で今の東京芸大に在学していましたが、「なさけの庭」と、「里の水車」が優秀賞を得たことにより、彼をベルギーのGent(ケント)美術学校に留学させました。ベルギーや、フランスのパリで児島虎次郎は沢山の名画(自然派、バルビゾン派、印象派、ゴッホ、ゴーギャン等の後期印象派、エコール・ド・パリ等)を集め、又、エル・グレコの「受胎告知」など、当時でも高い絵を大原孫三郎の諾を得て求めました。この大原美術館はリットン調査団の命により、文化遺産があるということで第二次世界大戦時、被害に会いませんでした。
最近では大原美術館ルネッサンスといって、学芸員が、幼児期美術館体験の企画や、ギャラリーコンサートや、大人向けの美術講演が高階秀璽館長によって行われている。その後、子の大原総一郎が更にコレクションの充実をさせました。西洋近代美術、20世紀以降の現代美術を昔からの本館で(アメリカ現代美術、アンディ・ウォールホール、ジャクソン・ポロック等)日本の近代美術の白眉画家たちの収集(岸田劉生、梅原隆三郎、福田和夫、村山塊多、万鉄五郎、青木繁、関根正二 等、官展、アカデニズム系だけでなく、中世漂浪画家の血も引いた日本近代画家たち)を南側の分館(新館)で見ることができます。
工芸館陶芸館は、大原家の土蔵を3室の展示空間に改造しています。陶芸家 浜田庄司、バーナード・リーチ、河井寛次郎の陶芸品や棟方志功の版画、生活の周辺の染色家、芹沢銈介の作品を置いています。
東洋館は、やはり児島虎次郎の集めた中国古美術品に、戦後収集したものを加え先史より唐代にいたる中国を中心とした東アジアの古美術があります。中国洛陽の龍門石窟の仏像の顔だけっていうのも結構ありますが、どのような道をたどってやって来たのか想いを馳せることもできます。工芸館に続く2棟の米蔵の陶芸館は、芹沢銈介がイタリアの修道院で見かけた尼僧の部屋をイメージしてデザインしたそうです。
倉敷考古館
白壁と黒の張り瓦(なまこ壁)が美しい倉敷考古館は美観地区の中でも古い建物の一つです。 今から200年ほど前の油や商家の土蔵米蔵を改装したもので、3階建ての蔵は、ここと、あと、井上邸だけが残っています。
地元のかの「大和朝廷」をも脅かした吉備古代王国文化の遺跡を展示しています。ここ瀬戸内一帯の遺跡から土器、石器、考古資料を分かりやすく、時代別に展示しています。
今の倉敷川は、単なる堀のように見えますが、物資の集散地として栄えていた頃は児島湾から瀬戸内海へ通じる運河としてさまざまな品物を運ぶ船が往来する、重要な交通路でした。前の橋が高く、弧状になっているのはそのためです。又、館長の真壁ご夫妻の著書、研究資料も求めることができます。
今は団地として住宅地になってしまっている場所(倉敷市庄)の王墓山古墳、楯築遺跡の出土品もあり、興味深いです。
倉敷民芸館
民芸運動のリーダー、柳宗悦の考えをもとに大原孫三郎が衰退していく倉敷の酒津焼きを守ろうと尽力しました。
用にかなうことが即ち、美しいというのがテーマで実用品を置いています。
陶芸家、浜田庄司やバーナード・リーチらが指導に訪れるなど、酒津焼きを通じて倉敷の文化が高まっていった。
倉敷ガラスの小谷真三の作品も展示されていますが、色々な企画展もやっています。
いがらしゆみこ美術館
平成10年(1998)11月20日オープン
人気少女漫画「キャンディ・キャンディ」の作品をはじめ、デビューから最新作まで漫画の原画30,000枚、書き下ろしのカラー原画1,000枚の他、デビュー前の未発表原稿や、構想段階の下絵などの貴重な資料を所蔵している。
総社地区(吉備真備・吉備路)
真備町・矢掛町
(右大臣吉備真備)
下道郡八田村(吉備郡箭田村)
695年生まれ。
22歳の時、(716)遣唐留学生となり、翌年入唐、在唐19年、諸学(経史、法典、諸芸)に通じ、文名をあげた。
当時の留学生で唐土で名を知られたのは、彼と阿倍仲麻呂の二人であった。天文、兵刑、暦数、音韻などに広く通じ、釈展の儀式を整えたり、法令の制定にあずかるなど、学者、政治家として奈良時代の文化に貢献したところは大きい。
吉備真備公園
吉備真備の遺徳を偲んで吉備真備公園が矢掛町にあります。
矢掛は、かつて古代吉備国の繁栄を担った豪族の一人、下道氏の統治下にありました。695年、矢掛町から真備町に至る小田川を中心に支配する下道圀勝の子として生まれた吉備真備は、留学生、遣唐副使として二度にわたり中国を訪れ、各種の学問を修め多数の書物も持ち帰り、唐の文化を当時の日本の政治文化に反映させた功労者です。そして、江戸時代になり、わが国考古学史上でも珍しい銅製の骨蔵器「胴壷」が現在の矢掛町で発見され、真備の祖母のものであることがわかり、いちはやく吉備真備ゆかりの地として注目されるようになりました。矢掛町と真備町では真備公の遺徳をしのんでともに記念公園を建設しました。矢掛町では吉備公館址に近い丘に「吉備真備公園」と名づけ、日中友好のしるしとして長く親しまれる公園を整備しました。
(吉備真備公園ホームページより。)
総社市(吉備路)
造山古墳・作山古墳
- 古代吉備王国の首長の墓といわれる県下最大、全国でも4番目の規模を持つ全長350mの大前方後円墳。 造営当時は日本一の規模で、その存在は畿内政権と肩を並べる古代吉備の勢力を物語っています。
- 作山古墳は備中国分寺の西方約1キロの地にある全長約286メートル、高さ約24メートルの前方円墳で、 その規模は全国第9位(県内第二位)であり、千数百年前の吉備の国の勢力の巨大さを物語るものといえます
備中国分寺
吉備路の田園風景の中に美しくそびえる五重塔は江戸末期の建築。寺は奈良時代の聖武天皇の勅願によって建立されたもので、周辺は吉備路風土記の丘県立自然公園として整備されています。
- 吉備路へは、ビジネスホテルロマンから車で30分。岡山駅から中鉄バス山手経由総社行国分寺前下車徒歩5分
岡山地区
後楽園
岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞亨4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かって藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人びとにも観覧が許されていました。明治17年(1884)岡山県に譲渡され、一般公開されました。昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基ついて復旧をおこないました。昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定され、後世に伝える歴史的文化遺産としてされています。(後楽園パンフレットより)
〒703-8257 岡山市後楽園1-5
TEL (086)272-1148
FAX (086)272-1147
城下電停から 徒歩10分
岡山県立美術館
郷土ゆかりの作家の作品を展示。企画展をやっています。
〒700-0814 岡山市天神町8-48
TEL(086)225-4800
FAX(086)224-0648
城下電停から 徒歩3分
岡山県立博物館
かつて、吉備国と呼ばれた岡山県には、北九州・近畿地方とともに早くから文化が華開き、今に多くの文化財が残されています。本館は、原始・古代から近世に至るまでの文化遺産を収集保存し、長く後世に伝えるとともに、その代表的なものを展観するための歴史博物館として、県政百年の記念事業で昭和46年に開館しました。施設・設備・管理体制の充実を期した本館は、文化財保護法に基づく公開承認施設であり、国宝・重要文化財が展示できる博物館です。
(岡山カルチャーゾーン、ホームページより)
〒703-8257 岡山市後楽園1-5
TEL(086)272-1149
FAX(086)272-1150
城下電停から 徒歩10分
夢路郷土美術館
岡山市を流れる旭川河畔に夢二生誕100年を記念して建てられ、昭和59年3月開館しました。後楽園を中心とする岡山文化ゾーンにあり、赤レンガ造りの風見鶏のある建物は夢二と共に大正時代を偲ぶにふさわしく、岡山の新名所として多くの人を迎えています
(岡山カルチャーゾーン、ホームページより)
〒703-8256 岡山市浜2-1-32
TEL(086)271-1000
FAX(086)271-1730
城下電停から 徒歩15分